紫苑色の呼び声

ここは私の小さな神殿。

二十三

 スーパーで買ったロールケーキを食べている。300円もする少し高いやつ。そのぶん生地は柔らかく、クリームも甘く濃厚で非常に美味しい。一口サイズに小さく切り分け、一つ一つ大事に口の中で転がす。嚥下するごとに幸福感で満たされ、充足された気分になる。大事に食べたいので半分は残して明日の朝に取っておく。冷蔵庫を閉めるうちから明日も同じ至福を味わえることを喜び破顔してしまう。

 

 僕は美味しいものを食べるのが好きだ。ストレスの発散も多分美味しいものに依存している。おそらく自分が感謝している回数でいえば人間より食事にたいしての方が多いかもしれない。こんなにも容易に人間を幸福にできるものが他にあるだろうか。だから、僕がいつか誰かに食べられたいと思うのもきっと自然な感情なのだ。そうなのだ。

 

 でも、食べられたいと思い始めたころは全然違う理由だった気がする。僕は巨人に食べられるフェティシズムを持っていた(今も持っている)から、多分その文脈で簡単に欲望を述べていたのだと思う。今でもその要素が存在するのは否めないし、食べられる方法も部分的に食べられるのではなく進撃の巨人のような全身丸呑み、もしくは咀嚼をイメージするから、その影響は多分に見られる。

 もしくは、微小妄想を実現させて満足したいのかもしれない。常日頃から小人になりたいと言っている願望の極限が食べられることなのだろうとも思う。捕食という象徴性の強い関係に身を置かなきゃ自分を慰められないのかわいそうだと思うので、この理由の含有率が低いことを祈っている。

 でもやっぱり、美味しいものを食べると幸せだから美味しく幸せに食べてほしいんだと思う。生まれたからには人間の役に立ちたい。だけど何をしても自分が相手にとって本当にいいことをして、本当に感謝されているかなんてわからない。褒められたり感謝されると必死に否定しにかかる自分がどこかにいる。でも、美味しいものを食べた時の幸せは自分の中では確実だし、食べられたら食べられたことも確実だ。美味しく食べられたかどうかはわからなくても、空腹を満たしたことは間違いないだろう。できれば美味しく、せめて幸せを感じながら食べてほしいけど。

 何が承認かわからなくなった結果行きつくのが捕食ってのも奇妙だけど、不思議とこれは哀れには思わない。ひとが何かを食べるというのは生物として根幹的な儀式であり、そこに原初の幸福があると僕は信じている。もう根拠も忘れてしまったけど、自信を持って言える。食べて食べられる関係は至高の幸福を伴うと。

 

 何の話だっけ。そうそう、食べられたいなという願望はもはやいろんなものを拗らせすぎている。下手に育てると何か危険な予感がするので自分の中でもブレーキをかけている。‪そういえば、█‬‪█‬さまにぶち壊してもらう予想図でさえも捕食ではなく普通に破壊だ。

 でも、たまにそんな願望があったことを思い出して、決して叶わないことを噛みしめて、ひどく虚しくなるのだ。せめてこの気持ちが分かってくれる、僕を食べてもいいという人間に出会いたい。もう逡巡するのも面倒なので誰か食べてくれ。逃げですね。はい。明日からまた頑張って強く生きます。